ポップカルチャー偏愛記

なんだかんだで結局J-POPにどっぷり浸かり救われながら日々を送る28歳女子の、切々たる日々に触れるすべてのポップカルチャー(主にジャニーズ)についての記録

「大衆音楽」であること 〜小沢健二の音楽は2017年にも有効なのか

先週のMステを見て、なぜ今になって突然、昔付き合っていた彼が小沢健二のDVD『超LIFE』を返してほしい、と連絡してきたかを知りました。オザケンが新シングルを出すなんて知らなかった。このDVDは結局2年近く借りっぱなしだったんじゃないかな。

 

金曜夜8時に、「ぼくらが旅に出る理由」と、新シングルの「流動体について」を披露しているオザケンの姿を見ていると、隔世の感があるんだかないんだか。

ミュージックステーションという長寿番組のなかで、老けてメガネをかけているとはいえ佇まいや声はまったく変わっていないオザケンが20年も前の曲を演奏している、そこに何らかの違和感を感じて、その違和感はおそらく「変わらないこと」に対する違和感でした。

 

20年経って、意味のわからないアコースティックバージョンだかEDMアレンジを施した「ぼくらが旅に出る理由」を披露したりとか、歌いやすいようにキーをちょっと変えたりだとかしていたならば、わたしは「いくらオザケンとはいえよる年波には勝てないよねえ」「やっぱり変わっちゃうもんだよねえ」と納得できたのに、そうはならなかった。

そこで演奏されたのはまったくわたしたちが知っている「ぼくらが旅に出る理由」だった。

 

変わらないポップスター、オザケンを目の当たりにして、自分の変化を意識せざるを得なかった人というのは多いのではないでしょうか。わたしはそうでした。

オザケンを見つめながら、過去の自分のことを思いました。かつて一緒に過ごしていた(のに今はそうではない)人たちのことを思いました。

小沢健二の曲に彩られていたわたしたちの生活(LIFE)はかつて存在したし、そして今はもうありません。

 

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だけどあの生活がかつて存在したということは、小沢健二の音楽が鳴り続ける限り証明される。なぜなら小沢健二の作る「大衆音楽」があの生活のなかにあったから。

大衆音楽とは、わたしたちが生きているなかで自然と耳に入ってきたり、口ずさんだり、ときには感情に入り込んできたり、それを聴いて救われたり、聴くとなにかの出来事を思い出す、そういう、わたしたちの生活のなかに共に存在する音楽だと思います。

今回のMステを観ていよいよ、オザケンは「この日本という国の大衆音楽の一部であること」に誰よりも自覚的だと知りました。そして、大衆音楽のなかにオザケンがいる、そんな暮らしを送っているわたしは本当に、本当に幸福だと感じました。

 

変わってしまったわたしに、変わらないオザケンの曲が、かつてのわたしの存在を裏付けしてくれる。そして新しいオザケンの曲がまた、「変わってしまったわたし」の生活を彩ってくれる。聴く人とその生活が続く限り、2017年だろうと何年だろうと、オザケンの音楽はつねに有効なのでした。

 

そうしてあらゆる大衆音楽とともに、わたしは変わったり、変わらなかったり、変わらなくて悔しかったり、変わってしまった自分を悲しく思ったりしながら、生きていくのでしょう。

オザケンがいようといまいと、オザケンの曲を聴こうと聴くまいと、わたしたちの生活は続いてきたし、続いていく。だけど、オザケンの音楽に彩られた生活を生きていることを、わたしは最高に幸運に思います。

Hey! Say! JUMPと一緒に画面に映るオザケンの、時空を超えた感よ。

それでもこの時間軸は常に直線だし、わたしはこの連続した28年間をまっすぐに生きてきました。すべての体験が今につながっているし、すべての体験を愛おしく思います。たとえ今は存在しなくても、確かに存在したのだから。

 

きっと今日のことを、今日聴いた音楽とともに、思い出すときも来るのだろう。

「僕は思う この瞬間は続くと いつまでも」「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」、オザケンはそうやって歌っていたけれど、それを聴くたびに泣きたくなる。

わたしもそれをわかっているし、忘れたくないと強く思います。

そしてわたしがこれまで享受してきた、今享受している、そしてこれから享受するであろうすべてのポップミュージックを届けてくれる人たちに、心から感謝します。

 

ちなみに今いちばん楽しみにしているのは、NEWSのアルバム『Neverland』です。