ポップカルチャー偏愛記

なんだかんだで結局J-POPにどっぷり浸かり救われながら日々を送る人間の、切々たる日々に触れるすべてのポップカルチャー(主にジャニーズ)についての記録

『ABC座2016 株式会社 応援屋!!』感想:「君をサポートしたい」という気持ちについて

わたしは2016年のA.B.C-Z座で上演された『株式会社 応援屋!!~OH&YEAH!!~』が大好きで、これまで円盤を繰り返し鑑賞しているのですが、この作品を初めて観たとき、これは誰かを応援するひとたちの話、つまり、わたしたちファンの話だ、と思って猛烈に感情移入しました。

 

応援してくれるひとがいるからアイドルはアイドルになれる

 

劇中で語られるこのセリフは、A.B.C-Zが演じる役柄が発した言葉ではないけれど、2017年11月に放送された少クラで橋本くんがそれと同じことを言っていた、とわたしは思い出し、A.B.C-Zからの言葉としてわたしは受け取りました。

 

 

自分の応援が自分の愛するひとの力になるとしたら、それって最高じゃないか。

そして誰かを応援することで、自分も強くなれるんだから、最高じゃないか。

 

このセリフのみならず、作品全体で、応援する自分が認められたような、ファンであっていいんだ、と力強く肯定されたような、そんな気分になりとてもうれしかった。

 

でも、なんども見返すうちに、応援するひとがいるということは応援されるひとがいる、応援する側にも応援される側にも物語がある、という事実を、より強く想うようになりました。

 

 

クリクリが桂馬さんに放つ「あなたには僕の人生を将棋まみれにした責任がある!」という叫び。

その言葉は必死で、悪意がないとはわかるのですが、こちらの胸を打つと同時に痛めもする。

なぜならそれは、自分のできないこと、あるいは自分の夢や希望を、相手に身勝手に背負わせていることに他ならなくて、そのとき応援は傲慢なものでもあり、応援される側にとってただの重荷になる可能性もあるから。

 

桂馬さんの場合は、本当はどうしたって将棋が好きで、諦めきれない気持ちがあって、最終的に自分の気持ちでCATANAとの再戦を選ぶのでOKなのですが、本人の気持ちが本当に将棋から離れているのだとしたら、クリクリのような応援の仕方は危険だとも感じます。

応援される側の気持ちを無視した〈応援〉は、健全とは言えないし、それはきっと〈応援〉とも呼べない。ただの押し付けにみえる。

 

 

桂馬さんも言ってました。

 

「自分の生きかたは自分で決める」

 

結局、本人の意志がすべてなんですよね。

応援が健全であるとき、応援が〈応援〉であるときっていうのは、応援される側が、自分の意志でその〈戦い〉を選んでいて、そして応援する側も、自分の意志で、自分のやりかたで応援しようと思っているときだけなのではないかと思います。

 

だからわたしはA.B.C-Zが好きなんだと思うんです。

「アイドルでいたい!アイドルが楽しい!ジャニーズが楽しい!」って心から思っている彼らを、心から応援できること。

それって、応援する側にとって何よりも幸運で、楽しくて、うれしいことだ。

アイドルがアイドルを楽しんでいることをこちらに伝えてくれる。きっと、それ以上にすばらしいファンサはない。

コンサートで、楽しくってしょうがないっていう顔で客席を見つめる彼らを見ると幸福感で泣きたくなるのも、きっとそういうことなんだと思うんです。

 

 

でも、そんな「応援される側」のA.B.C-Zが、舞台では応援屋として「応援する側」になり、エンディングで流れる「サポーターズ!」では、ステージ上からわたしたちを全力の叫び声で全力で応援してくれるんで、なんかもう混ざってしまうんです。

応援する側としてのわたし、される側としてのわたし、応援される側としてのA.B.C-Z、する側としてのA.B.C-Z、それらすべてが。

そしてそのシーンはまるで、わたしたちがA.B.C-Zへと届けている「応援」と、A.B.C-Zがわたしたちファンへ伝えてくれている「応援」を、全部ぎゅっと凝縮して、可視化したみたいなんです。

それくらいに圧倒的で、荒削りなパワーが、「サポーターズ!」の歌唱にはみなぎっているんです。

 

 

そしてそのときわたしは、コンサートの終わりに会場全員で叫ぶ恒例の決まり文句

 

「俺たちとみんなでA.B.C-Z!」

 

を実感します。

 

 

「サポーターズ!」の歌い出しは、こんな歌詞です。

 

君をサポートしたい

どんなにつらい夜も

涙が枯れ果てたとしても

ひとりじゃない

忘れないでね

僕も君に救われたんだよ

だから遠慮なんていらないのさ

You and Me

 

〈僕〉がわたしだとすると、わたしがA.B.C-Zに救われていて、A.B.C-Zには遠慮なんてしてほしくない、と思っているのはまぎれもない事実だし、

〈君〉がわたしだとすると、わたしがA.B.C-Zを救っているってことで、それをA.B.C-Zがわたしに伝えてくれているってことで、

 

それって…

 

それって、

 

最高じゃないか!

 

そう、最高なんです。「サポーターズ!」で歌われる、そして『応援屋!!』で描写される、応援する側とされる側の関係性って最高なんです。

 

つまりA.B.C-Zとファンの関係性が作品として結実したのがこの『応援屋』という作品であり、つまりA.B.C-Zとファンを繋いでいる絆は、ふんわりとした得体の知れないものではなくて、お互いの強い気持ちを乗せた「応援」なのです。

わたしたちは、お互いにお互いの〈応援屋〉なんです。 

 

ここで描かれているのは、たぶん、アイドルとファンの理想の在りかたそのもの。

そしてA.B.C-Zとえび担は、その理想の〈You and Me〉に、この上なく近いような気がして、わたしもその一部になれている気がして、すごくうれしいんです。

 

 

ジャニーズのあらゆるグループが〈応援歌〉を発表していて、わたしはこれまで、その歌たちにたくさん背中を押されてきましたが、それらの歌に共通するメッセージは、「君はひとりじゃない」。

 

そう、究極的な応援の言葉って、たぶん「頑張れ」じゃなくて、「君はひとりじゃないよ」なんだと思います。

自分には仲間がいる、と感じられるだけで、もしかしたらひとは強くなれるのかもしれない。

CATANAとの再戦で、応援屋の仲間たちに「お前たちの気持ちは受け取った!!」と咆哮し、果敢に戦う桂馬様をみていてそう感じました。

 

だけどいっぽうで、CATANAに負けた桂馬さんを猛烈に応援するクリクリを観ていて、わたしたちは自分が相手の代わりに土俵に立つことができないから誰かを「応援」するんだなあ、とも感じました。

 

自分に相手と同じくらいの実力があれば、あるいは相手と同じチャンスがあれば、相手の代わりに自分が戦える。

そんなときは、相手を応援なんてする必要はないんです。自分が戦えばいい。

クリクリだってそう。自分が桂馬さんくらい強かったら、自分が戦える。

だけど強くないとか、運がないとか、チャンスがないとか、諦めてしまったとか、何らかの理由があって、自分は土俵に立てない。

そうなると自分は、土俵に立つひとをどうにか外から応援するしかないんです。「ひとりじゃない」と伝えるために。自分のできるあらゆる手段を駆使して。

 

たとえばクリクリみたいに、家を出て桂馬さんの元に足を運んで直接言葉を伝えることも、応援屋の社長の娘さんが甲子園に挑む野球部に手紙を渡すこともそう。

あるいはわたしなら、FCに入ることも、彼らの作品や雑誌を買うことも、YouTubeの再生回数を伸ばそうと何度もMVを観ることも、数字として結果を残そうとすることも、応援したい相手に自分の気持ちを伝えるひとつの手段といえるでしょう。

 

 

応援という関係性のなかには、本質的に、自分と相手しか存在しません。

わたしが応援したいからする。超シンプル。

だから、55コンの挨拶で、河合くんが「A.B.C-Zに付いてくると、悔しい思いをすることもあると思う」と語ったけど、〈悔しい思い〉すらも応援という炎に注がれるガソリンでしかないんだよ。

 

わたしはA.B.C-Zにサポートされていて、わたしはA.B.C-Zをサポートしたい。

そしてサポートしたいなら、相手の負担にならない限り、全力で〈応援〉すればいい。

『応援屋!!』を観たわたしの思いはそれだけです!

 

これからも何度も見返したいし、見返すことになるのだろうし、そして誰かを応援しているすべてのひとに観てほしい作品です!そう!観て!

 

 

 

 

そんなわけでまずわたしは、A.B.C-Zにファンレターを書いて、今年のえび座のレターボックスに入れて、応援の気持ちを直接的に伝えたいと思います。えへへ。

そうやって意気込んでレターセットを買ったものの、なんだか照れちゃってなかなか筆が進まないので、前日に深夜のテンションで一気に書くことになるんだろうなあと思うんだけど、絶対にこれだけは書くって決めてるんだ、

 

いつもありがとう、僕ら!!!!!

 

ってね!

気恥ずかしいけど!

それが偽らざる気持ちなんだ! 

わたしはA.B.C-Zが大好きなんだ!!